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help RSS 正見 その9 正見道

<<   作成日時 : 2010/06/15 22:40   >>

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<正見>は、八正道の一番目に置かれています。八正道の残りの七つを修行するための基本とされています。いいかえれば、八正道を実践するには、正見がかかせないということです。

<正見>は八正道のひとつですから、<正見道>ということができます。
単に「正しい見解」というのではなく、苦を滅するための『修行』です。
一般に、「見解」といわれれば、物事を観察した結果としての見解を思い浮かべます。
いわば完了形です。
一方、「修行」といえば、現在進行形であって、完了形ともいえる「見解」とどう結びつくのかという疑問があります。
「八正道が、よくわからない」という原因のひとつと考えます。


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『修行』としての、<正見道>とは何でしょうか?

「真理のことば(ダンマ・パダ)第20章 道」を見てみましょう。

277 一切の形成されたものは無常である(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278 一切の形成されたものは苦しみである(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279 一切の事物は我ならざるものである(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

(真理のことば・感興の言葉 中村元訳)

このように、「正しい見解をもって、もの・ことを正しく観察すること」が、正見という修行ということができます。
この修行の目的は、「苦から遠ざかり離れること」です。
したがって<正見>の日本語訳としては、<正しい見解>というだけではなく、<正しく見る><正しい見方><正しい観察>も、それぞれ適切な日本語訳ということができるでしょう。

※正見とは、智慧によって観察すること。
※正見とは、苦から遠ざかり離れること。


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そのもの、概念もなく、こう思うもなく

そのままに見れれば、苦も、楽も感じないだろうと想像は出来ます

丁度息をするような感じではないでしょうか

苦とも思わず、楽とも思わず、知らぬ間に、息をしてます

自分が「息をしなければ」、苦しくなるから息をしなければと思わなくとも、自然と息をしているように私たちは感じています

しかし、冥想をすれば、明らかに、息をすること自体、その動作自体、かなりの苦しみであります

気づきの冥想していれば、生きる動作そのものが嫌な行為に気付きます。息をしてることすら嫌になります、なぜ嫌な気持ちになるかというと、苦しいからです。息をする動作そのものは、気づきの冥想をしてると、吐く動作そのものが苦しみで、吸う動作そのものも苦しみです。



かなり嫌な気持ちになります

ですから八正道は生きる目的での、八正道であると私は感じています。

いかに平穏、安穏に生きるか、そのための八正道の気がしております

上記の事にはっきりと確信をもったなら、もうそこで完成だと私なりには思っております



チューラパンタカ
2010/06/16 23:15
苦を苦だと気づいてしまえば

そのままに気付いたことになり

もう苦をいちいち苦だと思う必要はないということです

本来苦であるものを、苦でないとみるからそこに、悩み苦しみが生まれ

解脱とは違う立場にいるのが私たちではないでしょうか

息をする動作は苦です

しかし生れたときに、気づいているのだと考えます

ですから、息をすることは、楽だとか、苦しいとか、いちいち考えないだけで

ヴィパッサナー冥想は、息をする動作は、苦であることは、再確認してみることが出来ると思います
チューラパンタカ
2010/06/16 23:22
余談

仕事に行きますね

行く前には、いやな気持ちになることもあると思います

それから仕事場に行って、仕事をします

仕事をしてる最中に、嫌だ、嫌だと、ずっと思って仕事をする人は少ないと思います

嫌だと思ってる仕事場なのだけれども、その中に入ってしまえば、嫌という感情がずっと起きるかというと、そうでもない

客観的に見て、嫌だと思う仕事場なのだけれども、仕事場に入ってしまえば、嫌とずっと思ってる訳ではない

ですから、この生きること自体が、苦だと客観的に知ってしまい。またその中に入ってしまえば、いちいち苦だとは思わない

しかし楽しいものだ、楽なものだと思い、仕事場に行けば、かなり悩み苦しみは生まれる

生きることは楽しいものだ、楽なものだと思って、生きれば、悩み苦しみが生まれる

生きることは、苦だと知って、生きればそこには悩みも苦しみもないということです

ヴィパッサナー冥想で、息をする動作や、その他の細胞の膨らみや、縮み、等、すべての動作は苦です

それを体験してしまえば、すべて苦しかないと知って、もうその苦のなかに自分がいるのですから、もう恐れるものなどないのです

なーんてね、へ理屈ですから、お見逃しを六欲天さま

チューラパンタカ
2010/06/16 23:36
ヴィパサナーは、大念処経に書かれている修業方法です。
八正道でいえば、正定ではなく、正念ですね。

息を吸うのも吐くのも『苦』ですか?

それは、『はからい』があるからではないでしょうか?

『はからい』を捨てたなら、息は苦ではないと思います。

苦の原因は、煩悩です。
息は、煩悩(貪り、怒り、癡か)のどれにもあてはまりません。
析空
2010/06/17 13:11
<正見>が、最初に必要なのは、目的がハッキリしている場合と、そうで無い場合では、修行の成果が違うということでもあります。
先日、禅の入門書が目に留まったので、買おうと思って、手に取ったのですが、
前書きに、座禅とは何かとの問いに、ただ息を吹い、ただ息を吐くだけ、というような説明が書いてあったので、

思わず、買うのを止めました。

正見があるのと無いのでは、座禅の成果にも影響するのでは、と思います。
析空
2010/06/17 14:37
息を吸うのも吐くのも『苦』ですか?とのご発言に対して

息を吸う動作は、それぞれの細胞そのものが、吸ったり吐いたりしてませんか

頭でも、感じられませんか、息をとりいれてることに気づけませんか

足でも気付けませんか、息をとりいれてる感覚が

身体のなかの、なにが空気を必要としてるのですか

質問にしようと思ったけどめんどくさいので

チューラパンタカ
2010/06/17 22:42
全ての組織、それぞれが、かくそれぞれが、呼吸してませんか

たとえで言うなら、人間はそれぞれに、息をしてますね、それこそ何億人という人がそれぞれに息をしてますね

そのように身体のなかでも、なってませんか

僕は実践してから、気づいたことを基に、こうして書きこんでます

ただ伝え方を習うために様々なブログにおじゃましてます

どの様に伝えたら伝わるだろうか、と思っていろんなブログに投稿していろんな方に試してます

チューラパンタカ
2010/06/17 22:43
実践で気づいたことを書いてるから、間違うはずないでしょう

そのために極力、細心の注意を払って、本を読む時は読みます

伝え方を習うために本を読むのであって、本で理解するために、読むのではありません

実践して気付いたことを、伝えられないから、本を読みます

あなたはさかさまやってるんじゃないですか

逆効果ですよ、いろんな概念が頭についてしまうから逆効果ですよ

実践で、気づいたことを伝えたいから、本を読んだりしてる


息をする動作ですよ、動作。空気が勝手に身体のなかに入ったり、出て言ったりする訳ではないのですよ

動作するものがあって、息が身体のなかに入ったり、出て行ったりしてるのですよ

もういいです、書きます

細胞というのだろうか知らないんだけども、体のなかに、小さな風船のような感じで、それが膨らんだり、縮んだりしてるでしょう、その小さな風船のなかにまた細かな風船があって、その事を冥想のとき感じられて、気づいてる時は、不快に感じるでしょう

分からんだろうから、分かるようなたとえで書くと

静かにこころ落ち着いてるときに、体を揺さぶられたら、不快に感じるでしょう

そのように、こころに何の波もたってないときは、不快でしょう、一応細胞という名前で書きますが、膨らんだり、縮んだり、うるさい訳ですよ。

生きることは苦でしょうに。なぜ認められん

確かに生きることは苦だと、なぜ自分の事として、当たり前のように言えんのだ

自分の事にすら気付いてないからだろう
いつもしてる息をする、動作の事も知ってなくて

のうのうと生きてるんだろう、馬鹿門が

チューラパンタカ
2010/06/17 22:43
実践して気付いたことを、伝えるために、本を読んで、この事か、、、であって

本を読んで、どうしたら理解できるだろうなんてやってたって、絶対に自分自身の事は分からん

自分自身の事が分からんで、何が分かるっていううんだい

自分自身を知ってこそ、その自分の使い道が、初めて分からんだろう

あんたはね、もしかしたら、取扱説明書を見て、なるほど自分自身というう道具は、このように使うものかとやってるで使うものか、とやっているのでしょう

仕組みも知らず、ただ取扱説明書通りやってるだけだろう

取扱説明書がなければ、また、取扱説明書にのってないことがあれば、もうそこでお手上げなんだろう



チューラパンタカ
2010/06/17 23:08
私から見ればですが、なんてばからしい事をやってるのかと、そう見えます

でなくて、仕組みを知ってしまえば、取扱説明書なんていらんでしょうに

常に、自分の体は、ここにあるのに

それを見ようとしない、いつでも生きてる限り、何をしてても、ずっと一緒の、この体の事を知ろうとしない、こころで見れば見えるものを、こころで見れば、頭のことだって見えるのに、本当に馬鹿ですね

本を探さなくとも、答えは、すぐそこにあるのに、自分の体、こころは、ここにあるのに、バカとしか言いようがありません

わざわざよそ様の、書いた取扱説明書ばかり見てる必要ないでしょうに

ただ、慈悲の冥想、そしてヴィパッサナー冥想、これだけやりゃいいのに

そして変化が起こった時に、すばらしいので、伝えたい気持ちになります、そこから仏教を習えば、すんなり、当たり前のことが書いてある、本には出会えます

やはりスマナサーラ長老の御本です

伝え方の、仕組みというか、公正というか、伝え方が凄いのです、言葉の、文字の使い方ではなく、構成が凄いのです。こころの仕組みを知ってて、分かるように勧められるのです

また書きますが、小説を読むように、スマナサーラ長老の御本は読むのがいいのです

ここが分からん、あれが分からんと言って、難しく言いながら小説を読む人は少ないと思います。ただスーッと読んじゃえば、最後には納得できるように書いてあるのです

それが、こころの事を書かれてるから偉大なのです

ですからスマナサーラ長老の伝えられる、ブッダは素晴らしいと僕は表現してるのです
チューラパンタカ
2010/06/17 23:08
私が正しくてあなたが間違っているという言葉使いで話すとお互い反発しあうだけだと思います。
あなたも私も生かすという言葉使いで話し合うことが大事ではないかと思いました。
では。
幸い
2010/06/18 10:35
たとえ、正しくても真理であっても、私が正しくてあなたが間違っていると迫れば相手は反発してしまいます。

具体的にどうするかはアドバイス出来ませんが、自覚するだけでも違うと思い書き込みました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
幸い
2010/06/18 11:02
幸いさん
ご忠告、有り難うございます。

今回は、怒りでの反論ではありません。

いくつかチューラパンタカさんの書き込みで気になったところを、指摘してみたいと思います。
とりあえず2つですね。

一つは、『身体が息をしている』という『考え』ですね。
これは、どう考えたらいいでしょうか?

科学的には、間違いです。
そして、重要な点は、『身体が息をしている』という迷信を信じている人が、多いということです。

この迷信を信じたまま、瞑想を行うと、『足が息をしている』という妄想を感じてしまうということです。
チューラパンタカさんは、まさに妄想を感じているのではないですか?

もう一つの問題は、『体験したから間違いない』という『考え』ですね。
これは、その体験を、どうやって『妄想』ではないと判断するか、という問題です。
析空
2010/06/18 12:02
管理者様。
皆様にとって良い方向に向かうように念じています(^^)
幸い
2010/06/18 13:57
>息をする動作ですよ、動作。
>空気が勝手に身体のなかに入ったり、
>出て言ったりする訳ではないのですよ
『皮膚呼吸』で検索してください。

人間の皮膚呼吸は、肺呼吸の1%以下。

細胞が、膨らんだり縮んだりするのは肺呼吸です。

皮膚呼吸は、
『空気が勝手に身体のなかに入ったり、
 出て行ったりする』
訳です。
そうであるなら、苦しくはありませんね?

瞑想で『足の呼吸』を感じたなら、それは妄想です。

呼吸が『苦』なら、生きている身体で、涅槃はありえないことになります。

以前に問題にしました、『心解脱』『慧解脱』の2つで、涅槃に至るのであって、『身解脱』は、問題外です。
析空
2010/06/18 22:36
人間の場合、『皮膚呼吸』は「無い」と言っていいです。
この科学的に不変の事実と、瞑想の結果が異なった場合、どうすればいいでしょうか?
結局は、ご自分で判断してください。
私なら、客観的、合理的に、科学的に実証された情報を採用します。

さて『肺呼吸』に関しては、まったく事情が異なります。
前に『はからい』に言及しました。
『はからい』とはなんでしょうか?
析空
2010/06/19 07:44
『はからい』とは、人が「何かをしよう」という思いと、行動です。
仏教用語で「有為」といいます。
有為は『苦』です。
一方、涅槃は『無為』です。
『はからい』を捨てたならば『苦』から離れるといいます。

生きることは苦でしょうか?

はからいを捨てたなら、生きることは苦ではありません。
析空
2010/06/19 19:11
返事するのも面倒ですが

自分で自分を観察してみなよ

それで私の場合は、こうだったと発見すればいいだろう

もう知らんぞ、本当にけしからんやつだ

どうでもいいことばかりに、目を付けやがって

自分を観察して、こころ静かにしていれば、いろんなもの見えてくるんだろうに、気づくんだろうに、それをあんたはいちいち解釈してしまうから、解釈出来んように、常に、集中して、体の動きに注意を向けて、そしたら、そのものを感じるだろうがに、そのものをずっと感じるだろうに、腹なら腹で、映像を見てればいいだろうに、指の先なら指の先の、いちばん細かいところの、部分の映像というか、感覚というかを感じるというか、見るというか、してればいいんだろうに

あーめんどくさ、けしからんやつだ


チューラパンタカ
2010/06/19 21:40
『面倒臭い』『けしからん
どれも、事実ではなく、あなたの『妄想』です。

「私に対して」『妄想』を抱くのは、止めてください。

どれも事実ではありません。

最後にひとつだけ、一番重要な点を指摘して置きましょう。

※実践して体験したから事実である。

これは、いいでしょう。
問題は、その事実の解釈です。

※観察すれば解る。

これが間違いです。
ここが、チューラパンタカさんの最大の問題点でしょう。

釈尊が、なぜ正見を一番目に持ってきたか?

<正見>を持って観察するのでなければ、間違うということです。

観察して誰にでも、真実が解るのならば、「大乗仏教」というエセ仏教が出来上がるはずがありません。

観察した事実を、どのように言葉で表現するか?

少なくとも、科学的に否定された表現するは、使うべきではないと私は思います。

足は呼吸しません。
それが事実です。
析空
2010/06/20 08:26
全ての細胞は空気を必要としてませんか

ですから、肺があるのではないのですか

全ての細胞にとって空気を必要でもあるし、不要にもなるし、そのための肺の機能ではないでしょうか、肺を動かす基となるものは、体のそれぞれの、細胞ではないでしょうか

ついでに、話は変わりますが

「生きとし生けるもの」、とは

たとえで言うなら、

人間でたとえればそれぞれの細胞一個一個を全て、まとめて人間と言いますし、一人間として,ひとかたまりとしてみています。

生きとし生けるものとはそのような見方であります

生きとし生けるものの一部分が人間であり、犬であり、また見たこともない生き物も含めて、生きとし生けるものであります

丁度、人間の腕は、人間の一部分、また腕の細胞は、これも人間の一部分、細胞のなかにも、空気は有るでしょう、そしてそれは、入れ替わっているでしょう

へたくそな、書き方や、文章だから伝わらんのは当然やけど

体験は体験や、それを言葉にするうえで、体験しとらん人には、当然伝わらん

怪我したことない人に、どんなに怪我の痛みを言葉で伝えようとしたって伝わらんからな

同じような体験してる人だけが、あーあのことやな、と分かるだけで、言葉の表現があってるか合ってないかは、無責任だけど知らん、ただ同じような体験した人には、まぁ、まぁ、伝わるやろ、あの事かとね、けど言葉の表現は、下手やろね

なんかの作業一つしたって、一緒やろ、同じことやった人とはまあ、まあ、会話が成立する

しかし、作業をせんとって、作業の仕方の本読んでる人と、いくら話したって、会話にならん

あの事を、表現したいんだな、とは、なるはずがないんだよな

だって体験がないんだから、

自分はどうなんだ、どう思うんだ、自分の体だろ
チューラパンタカ
2010/06/20 22:06
しゃっくうさん
足は確かに、肺という機能をもって呼吸してるわけではないが、代謝として酸素を取り入れて二酸化炭素を排出しているよね。それを細胞の呼吸と呼んでもおかしくはないんじゃないかな?

チューラさん

細胞には、さすがに空気は入らない。が、
赤血球のなかにあるヘモグロビンの鉄分が、肺の中で酸素と結合して体の中へ運んで代謝していることを、空気と取り入れていると解釈しているだけのことかな?
六欲天
2010/06/20 22:59
イメージを妄想と解釈するのは、個々に於いてそれぞれが解釈していくしかないでしょう。

瞑想に於いて、全身の細胞に酸素を隅々に送るイメージをする。
別にこれはスマナサーラ長老のいう瞑想法にのっとっていると思われるけど、どうかな?

その解釈に於いて、実際にはそうはなっていないとか、いるとかの争いでしかないよね。

見方を変えりゃ、お互い正しいかと思うし、あやまりかとも思うよ。
解釈、見解の仕方が違うだけぢゃないの?

チューラさんには、この事について家に例えて前回述べているよね。

正方形の物質があって、見る方向に依っては長方形に見えたり、ひし形に見えたり、高速に回転させれば円柱にも見える。ひし形の半分が隠れていたら、三角形にも見える。
どのように見えることが、「正見」というものなのかね。
六欲天
2010/06/20 23:18
1.最初の問題は、息をすることが『苦』なのか
どうかでした。
>しかし、冥想をすれば、明らかに、息をすること
>自体、その動作自体、かなりの苦しみであります

>冥想をしてると、吐く動作そのものが苦しみで、
>吸う動作そのものも苦しみです。

これに対して、「息をすることは苦ではない」というのが、私の見解です。
そして「はからい」があるとき「苦」になるという、仮説を説きました。

>ヴィパッサナー冥想は、息をする動作は、
>苦であることは、再確認してみることが
>出来ると思います

瞑想して体験したこと自体は否定しません。
ただ、その体験の解釈を問題にしました。
「吐く動作、吸う動作」を「苦」と観じたのが、違うのではないか、「はからい」があるから「苦」と観じたのではないかいう話をしました。
ここまでは、肺の呼吸について問題にしていました。

2番目の問題は、「皮膚呼吸」です。
>足でも気付けませんか、息をとりいれてる感覚が

前後の関係から、足の細胞が「吐く動作、吸う動作」をしていて、それが『苦』だと言っていることになります。
これに対しては、「足は呼吸をしていない」と指摘しました。
これが「皮膚呼吸」の話してはないというのなら、もうしわけありません。

>全ての細胞は空気を必要としてませんか
細胞は、「吐く動作、吸う動作」をしていません。
浸透圧で、酸素を取り入れています。
これは、いわば勝手に出入りしている訳です。
勝手に出入りしているなら、「苦ではない」と指摘済みですね。
析空
2010/06/22 08:29
3番目の問題は、『実践で気づいたこと』です。
>実践で気づいたことを書いてるから、
>間違うはずないでしょう

体験したから正しいという問題です。
これは、その体験を、どうやって『妄想』ではないと判断するか、という問題です。
いろいろ間違っていることを指摘しています。

4番目の問題は、『妄想』です。
>伝え方を習うために本を読むのであって、
>本で理解するために、読むのではありません
>あなたはさかさまやってるんじゃないですか

これも、勝手な思い込みですね。
本を紹介する目的は、いろいろあります。
例えば、著作権上の問題で、『引用元を明示する』というものが、そのひとつです。
また、記事の「根拠」を提示しているという意味もあります。
当初、金儲けの意図もありましたが、今はありません。

私のブログを、「自分勝手に解釈」して「妄想」を抱き、その「妄想」を元にして、私のブログを批判しているのです。
この種の思い込みに対しては、「私に妄想を抱かないでください」とお願いしました。
析空
2010/06/22 08:31
5番目の問題として、
>返事するのも面倒ですが
>自分で自分を観察してみなよ

「瞑想すれば解る」という問題です。
これが最大の問題点であると指摘しています。

※観察すれば解る。

これが間違いです。
ここが、チューラパンタカさんの最大の問題点でしょう。
単に観察するのではなく<正見>が、智慧が必要です。

6番目に「生きることは苦」。
>生きることは苦でしょうに。
>なぜ認められん

「生きることは苦」というのは、経典には書かれていません。
スマナサーラ師は「生きることは苦」であると断言していますが、私は、それは違うと考えています。

>はからいを捨てたなら、生きることは苦ではありません。
これは私の仮説です。

「返事するのも面倒です」「もう知らんぞ」といわれていますので、これは問題にしても回答いただけないだろうし、そもそも、この問題は、複雑すぎて、簡単には話すことのできる問題ではありませんので、ここで、これ以上は問題にしません。

問題点は、すでに指摘済みで、これ以上、話の発展はないでしょうから、ここまでにしたいと思います。
析空
2010/06/22 08:33
話は変わりますが、『呼吸』と『瞑想』について、面白い記事を見つけました。

「あの世に聞いた、この世の仕組み」
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/m/201006

このブログの6月14日〜6月21日あたりまでの内容を参照してください。なんと、タイムリーな記事なのでしょうか。

私は「はからい」は「苦」と書きましたが。
こと呼吸に関しては、深呼吸(はからい)はリラックス(楽)なのだそうです。
析空
2010/06/22 09:14
お返事ありがとうございます

生きとし生けるものが幸せでありますように
チューラパンタカ
2010/06/22 20:25
スマナサーラ長老のこちらの法話が参考になると思います。
http://gotami.j-theravada.net/2010/06/ustreamdhammacast.html
幸せでありますように
2010/06/23 20:50
><正見>は、八正道の一番目に置かれています。八>正道の残りの七つを修行するための基本とされてい>ます。

この正見は、以下の七種の正道によって実現される。
(ウィキペディア参照)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

逆もまた真なり?
六欲天
2010/06/23 22:57
あらら。
回答はしていただけないんですかね。

ま、する・しないは自由ですから
六欲天
2010/06/27 08:32
六欲天さん

ちょっと仕事が忙しくて、返事もせず、失礼いたしました。

初めから、<正見>を持てる訳ではなく、他の7正道を実践することで、<正見>を持つことができる、あるいは深めることができると言えます。

他の7正道を実践するには、初めに<正見>がなければ難しいでしょう。

少なくとも、修行の目的が苦の滅であるという見解は必要です。
そうでなければ、本覚思想(さとらなくてもよい)などという変な思想に惑わされてしまう恐れもあります。
析空
2010/06/27 11:22
仕事が忙しいそうで、なによりですね。(*^_^*)

さて、

>初めに<正見>がなければ難しいでしょう。

これは、析空さんの所感ですか?

<正見>が無くて7衝動を実践するのは、「難しい」のであって、「不可能」ではないわけですね。

六欲天
2010/06/27 12:11
誤 7衝動
正 7正道

です。

すみません。
六欲天
2010/06/27 12:49
『八正道を実践すれば涅槃に至る』という見解が、<正見>です。

従って、正見以外の『7正道を実践する』ということは、既に正見を持っているということです。

これは、中村元先生を初めとして、それ以降の仏教学者の一般的な解釈と考えていただいてよいと思います。

そして、7正道の実践によって、さらに<正見>を自分のものにしていくということです。
析空
2010/06/27 19:37
1.初めから、<正見>を持てる訳ではなく、
  他の7正道を実践することで、<正見>を
  持つことができる、あるいは深めることが
  できると言えます。

これは、「正見」に至っていない者が、
7つの正道を修行することによって
「正見」に至ることができる。
という意味ではないでしょうか?

2.「正見」は八正道の残りの七つを
  修行するための基本とされています。
  (他の7正道を実践するには、
   初めに<正見>がなければ
   難しいでしょう。)

「正見」に至っていないから7つの正道を修行する見解を正しいとするならば、初めに「正見」には至っていないという条件のもと、あなたの言う「正見」を基本とした7つの正道は実践できない。

3.八正道を実践すれば涅槃に至る

「八正道=正見」とするならば、「正見=涅槃」と言えます。
「正見」に至っていないから、7つの正道を実践するのであれば「正見以外の『7正道を実践する』ということは、既に正見を持っているということです。」

というのは、混乱しますね。



六欲天
2010/06/27 21:28
『正見を深めることができる』という表現でいいたかったことは最初の<正見>が、100%の正見ではないということです。

「ある程度の正見」などという正見が正見といえるのかどうかという問題はとりあえず置いておいて、

最初の正見は「八正道を実践すれば涅槃に至る」という見解(正見)を持って、7正道を実践するということです。
このとき、八正道をまだ完璧に理解できている訳ではありません。
しかし、「他の宗教の教え」ではなく、「八正道を歩む」ということそのものが、「正見を持った」ということなのです。

そして、その最初の正見によって、7正道を実践することによって、正見をさらに深め→智慧を獲得し、その獲得した智慧によってまた7正道を実践するという繰り返しであるということです。

最終的に、煩悩を手放すことができたとき、修行の完成といえます。

修行を完成した人は、普段の生活が八正道そのものなのです。
析空
2010/06/27 23:01
>初めから、<正見>を持てる訳ではなく

この表現は、7つの正道の実践の初めは、<正見>を持っていない。という表現ではないのですか?

八正道の残りの七つを修行するための基本とされています。いいかえれば、八正道を実践するには、正見がかかせないということです。

と表現されています。


基本(正見)の無い7つの正道の修行をして、あなたが言うところの<正見>が得られるのでしょうか?

また、得られていない<正見>を、どのように基本にすれば良いのでしょうか?

>、「八正道を歩む」ということそのものが、「正見を持った」ということなのです。


<正見>を含めて「八正道」というのに対し、<正見>を得られていないのに「八正道」とは言えないのでは?

<正見>のない八正道を歩んで、<正見>を得られるのでしょうか?

六欲天
2010/06/28 02:21
100%の正見とはいかなるものか
1パーセントの正見とはいかなるものか

パーセントの表現は、〜からの比較というもので

なにから比較して100%というのか

比較するものが無ければ、こうした100%の〜という表現はできないのでは?

「ある程度の正見」とは、どこからでたものか。

>最初の正見は「八正道を実践すれば涅槃に至る」という見解(正見)

この表現は、7つの正道を実践する初めに<正見>があるということですよね。
それに対し「初めから、<正見>を持てる訳ではなく、他の7正道を実践することで、<正見>を持つことができる。あるいは深めることができる。」と表現されています。

「初めから、<正見>を持てる訳ではなく」
この表現はどういうことなのか。

冒頭に書いたように
この表現は、7つの正道の実践の初めは、<正見>を持っていない。という表現ではないのですか?

「実践の初め」とは、実践の前をいうのか、後をいうのか。



六欲天
2010/06/28 02:21
100%の正見とは「修行の完成」=「解脱」=「涅槃」です。

>「初めから、<正見>を持てる訳ではなく」
>この表現はどういうことなのか。
「初めから、100%の<正見>を持てる訳ではなく」という意味です。

「最初の正見」とは、まだ「解脱」できる智慧ではないが、「八正道を実践すれば涅槃に至る」という見解(100%ではない正見)のことです。

言い換えれば、「最初の正見」とは、「100%の正見の一部」ということです。
(正見の一部は、正見なのかというツッコミは置いておいて)

したがって、正見の無い八正道というものは、ありえません。
誰でも、最初から100%の八正道を歩めるわけではありません。
析空
2010/06/28 06:17
>「ある程度の正見」とは、どこからでたものか。
これは「最初の正見」、つまり100%の正見の一部を「ある程度の正見」と表現しました。

><正見>のない八正道を歩んで、
><正見>を得られるのでしょうか?
釈尊の弟子である、モッガラーナは、弟子になって7日目に修行を完成したといわれています。
これは、<正見>を持っていないまでも、ある程度の(正しい)修行を実践してきたからといえます。

正見を得る方法は、2つあるといわれています。
ひとつは、「法を聞く」
もうひとつは、「正思」です。

「多聞の弟子」という言葉は、本来、ほめ言葉でした。
大乗仏教では「多聞の弟子」を声聞(しょうもん)と呼んで、
「声聞は成仏できない」などと、でたらめを言います。
析空
2010/06/28 06:27
もともとのあなたの説では、「ある」「ない」の表現をされていた。

この時には、矛盾をしていたから多くの質問をした。

質問を重ねるごとに「ある程度」とか〜%とか、はたまた「〜の一部」とかの表現に言い換えている。

この表現の変化に、他の読者はどう思うであろうか。

よくお考えいただき、今後の表現の仕方の参考にしていただきたい。

初めから、そのように表現されていれば多くの時間を費やすことはなかっただろうに。
六欲天
2010/06/28 07:45
六欲天さん、表現の是正にお付き合いいただき、ありがとうございました。
今後の表現の参考にさせていただきます。m(_4_)m

>初めから、そのように表現されていれば多くの時間を
>費やすことはなかっただろうに。

本当に、そうでしょうか?

初めから「正見の一部」であるとか、「100%ではない正見」などと『表現』したら、また別の問題が生じるだけではないですか?

正見にかんする説明で、「正見の一部」とか「100%ではない正見」などという説明をしているのは、「史上、初めて」ではないでしょうか?

それは「六欲天さん」の理解のための表現であって、「今ここ」に必要な表現であった、ということです。
その表現は、前提となる(あいまいな)単なる<正見>という用語の使用があって、はじめて可能な表現です。

したがって、ブログの説明としては、こまかなことは置いておいて、一般的な説明を書くことになります。

読者のニーズは多様であり、そのすべてを満たすことは不可能です。
コメントをいただければ、コメントいただいた人に合わせて表現を変えることは可能だと思います。

「正見の一部」とか「100%ではない正見」という、仮の表現も、他の読者が「どう誤解する」か、現時点では想像もできません。

それらの懸案を考慮の上、表現の改善には今後とも努力してまいります。
また、ご指導のほど、よろしくお願いいたします。
析空
2010/06/28 08:29
>初めから「正見の一部」であるとか、
>「100%ではない正見」などと『表現』したら、
>また別の問題が生じるだけではないですか?

ふふ(*^_^*)

>また、ご指導のほど、よろしくお願いいたします。

指導しているつもりはないですよ。
次に何が出てくるか、楽しみにしています。

私のブログで、「言葉」について「自分の所感」を
書こうかと思っています。

よろしかったら、見てみてくださいね。

では、
お仕事、頑張ってくださいね。


六欲天
2010/06/28 18:29
こんにちは。

なんだか、難し過ぎて分からないので、二点についてご指導のほど宜しくお願いたします。

まず、本文中に「諸行無常」と「一切皆苦」とありますが、単に文だけよむと、無常と苦を入れ換えてもいいように思えるのですが、その点はいかがなのでしょうか?単純化すると、無常=苦でいいのか?ということです。

もう一つは、コメント欄での六欲天さんとのやりとりでの「正見」についてですが、私なりの理解を具体的にいうと、例えば「正語の中の嘘をつかない」が何故に、「正道(の一部)」であるかをまずは理解して、それを実践する。この時、嘘をつかないよう努力することは、「正見」の一部の土台をなしながらもまだまだ不完全である。自然体で嘘をつかないためには、更なる「正見」のレベルを上げる必要性がある。そのレベルアップした「正見」でもって、今度は無駄話しをしないようにしていく。更に、その時の未熟な面を補うべく「正見」のレベルを上げる努力をする。

まあ、以上のような事柄なら、この私でも一応は理解できるのですが、ご教示のほど宜しくお願いいたします。



しんちゃん
2010/07/12 08:41
しんちゃん、こんにちは。
「無常=苦でいいのか?」とのご質問ですが、
ここでは「=(イコール)」という記号の意味が、
問題になります。
イコールだと、「まったく同じ」という意味になります。
そういう意味ではイコールではありません。
無常=苦ではありません。
しかし、言葉の表現としては、「無常であるから苦である」と、経典の至るところで述べられています。
そしてイコールでない理由は、
「無常を無常と明らかに知れば、無常が苦ではなくなる」ということです。
析空
2010/07/12 12:40
言葉というものは、情報の伝達手段としては、かなりの制約を伴うものです。
最初に、言葉には限界があるということを、まず認識していただく必要があります。
ですから<正見>とは何か、という問題について、言葉にこだわると、こちらの趣旨が伝わらないということになります。
言葉で表せない部分については、推測していただくしかありません。

以上の、「言葉の制約」「言葉の表現にこだわらない」という点を踏まえた上で、正見に関しては、しんちゃんの説明されたとおりと思います。

>「正見」の一部の土台をなしながらもまだまだ不完全である。
>更に、その時の未熟な面を補うべく「正見」のレベルを上げる努力をする。
こういう解釈でよいと思います。
析空
2010/07/12 12:50
析空さん、ご教示ありがとうございました。

確かに、イコールの意味が問題ですね。
例えば、犬、ワンワン、ドッグは言葉の表現が違うだけで、イコールですが、その意味でないことは、析空さんのご説明で一応は理解できました。
分からないのは、もし無常を無常と知れば苦がなくなる(無常が苦でなくなる)のなら、何故「諸行無常」だけで済ませなかったのか?ということです。

ある事柄「A」がある場合に、ある角度から見ると「A。」になり、違う角度から見ると「A。。」になるとしたとします。本質は同じでも、現象としては多少の違いがあるように見える場合です。
そのように、修行の道程で、それが「無常」と見える場合と、「苦」と見える場合の二つの場合があり、しかし両者は本質的には「同一なのか?」という意味でイコールを使用しました。

何故そう思ったのかと言えば、本文中にあるように、「無常」あるいは「苦」が悟れれば(ニュアンスでご理解して頂きたく思います)、それでいい。という印象を持ったからです。
何故敢えて「一切皆苦」なのでしょうね?「苦」以外何も存在しないのでしょうかね?ブッダの言葉からは、そのように思えます。
 ブッダが感覚を「苦、楽、不苦不楽」に分けて説明されたのは知識としては知ってはいます。これと「一切皆苦」とはどのような整合性が成り立つのでしょうかね。

少し話しが飛躍しますが、この存在する世界を輪廻の世界(仮説として)とすれば、輪廻の世界=苦しみ。だから、その世界から脱出しよう!⇒解脱。ということは、論理的には成立してるように思います。むしろ「一切皆苦」はこの意味でとったほうが、自分としては少しシックリきます。
だから納得したというわけではありませんが。。
しんちゃん
2010/07/12 15:04
「一切皆苦」については、「一切行苦」と表現する方が適切と考えられます。

全てが苦なのではなく、『全ての『行』(つくられたもの)が、苦である』という意味です。

そして、つくられたものでないもの、すなわち涅槃を楽とします。
析空
2010/07/12 21:53
析空さん、たびたびの御教示ありがとうございます。

実は、以前(今年)「仏教でいう涅槃とキリスト教の神は同一である」という趣旨のブログを拝見して、反論したことがあります。「つくられていないもの、すなわち「神」」という論拠です。話しがごちゃごちゃになって、平行線を辿りましたが、ここでも「言葉の壁」をひしひしと感じましたね。

ところで、「一切の「行」は苦である」のなら、「一切の「行」は無常である」と同じ構成になっているので分かりやすいです。

すると、無常とともに「行苦」を智慧で理解しない、また知ろうとしないことが(これは無明や渇愛によ「苦」です)、いわゆる俗に言う「苦しみ」となっているのかもしれませんね。
しんちゃん
2010/07/13 04:45
昨日は、時間が無くて、コメントが途中でした(^^;;
大変、失礼しました。

「一切行苦」が真理であることは、経典の各所で強調されていますが、一方で『苦の滅』も、同じくらい強調されています。

「苦の滅」がありえるならば、「一切行苦」は真理ではないのではないか、という疑問は当然のことと思われます。
そこで、釈尊亡き後、世俗諦と勝義諦という説明がされるようになります。
いまだ悟りを得ていない段階(世俗諦)では、「無常が苦である」という意味で「一切行苦」です。
悟りを得ると「修行の完成」=「解脱」=「涅槃」で、「苦の滅」です。
「無常が苦ではなくなる」というのが勝義諦です。
ただし涅槃は、行ではないので勝義諦でも「一切行苦」という真理は変わりません。

「つくられていないもの、すなわち「神」」という論理は、『存在』というもの概念が問題ですね。

涅槃は、涅槃という『存在』ではありません。
涅槃は、すなわち「空」であるということです。
涅槃は、心の状態です。
涅槃は、「何事かを為そう」という思いがありません。

はじめから神が存在するのではなく、神は、「神をどう定義するか」という問題です。

涅槃を神と定義するれば、何もしない神の誕生です。
人間を創ったり、裁いたりしない、ということですね。
析空
2010/07/13 09:19
析空さん、御教示ありがとうございました。

これで、「一切行空」が真理であることと、四聖諦とが矛盾しないことが私なりに明瞭になりました。

「神」の概念も色々こじつけることが出来るとは思います。

そこで「諸法無我」が有効になるとは考えられないでしょうか?

この場合「ダンマ」の意味が問題とはなりますが、ダンマは行より広義の言葉のように思います(私的印象です)。

「神」の概念をどう定義しようと、つまり行という概念をくぐり抜けても、それは一つのダンマで、「諸法無我」でそのような見解や「実体論」を根底で否定してるようにも考えられます。その点はいかがなのでしょうか?
しんちゃん
2010/07/13 10:48
仏教では、天地を創造した神のような啓示上の存在は、諸法無我で否定しますね。
ただ学問的には、無我ではなく、非我だという主張があります。

初期の仏教では、執着を捨てることに目的があり、
『我』については、あまり問題にしていないようです。
析空
2010/07/13 17:15

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